ナショナリズムについて考える

2024-01-15

昨日も紹介させていただいた、こちらの本。

本日は二つ目のキーワードである民族主義(ナショナリズム)について私が理解できた部分を紹介させていただきます(と言ってもほとんどが直接引用になってしまいましたが・・・)。

ナショナリズムについて、この本ではいかにナショナリズムが出てきて・・・、という歴史的な経緯や理論が紹介されています。

しかし、結局のところ筆者が言いたかったことは、

「資本主義が発達して、グローバル化が進んだ末に、帝国主義の時代が訪れることは前章で説明しました。同時に、帝国主義の時代には、国内で大きな格差が生まれ、多くの人びとの精神が空洞化します。この空洞を埋め合わせる最強の思想がナショナリズムなのです。新・帝国主義が進行する現在、ナショナリズムが再び息を吹き返しています。合理性だけでは割り切れないナショナリズムは、近現代人の宗教と言うことができるでしょう」

ということなのだと思います。

でも、もったいないので、本書に描かれているナショナリズムの歴史や理論について、私が理解した部分を書いておこうと思います。

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西欧では、国家というまとまりが比較的早い段階で成立していました。

しかし、中東欧を含む15世紀末の神聖ローマ帝国は、皇帝こそいるものの、権力はなく、帝国のなかに数百もの領邦が分立しているような状態でした。

ルターがはじめたカトリック教会への批判運動は、ヨーロッパ全体をカトリックとプロテスタントに分け、1618年に30年戦争がはじまります。

30年戦争の後、1648年にウェステファリア条約が締結されます。
ここで、宗教戦争が終結すると同時に、神聖ローマ帝国内の各領邦国家も含めて、それぞれの国が内政権と外交権を有する主権国家として認められました。

しかし、領邦内の住民の国家に対する帰属意識は希薄でした。

フランス革命では、国家の主権が国王ではなく国民にあるという原則が打ち立てられ、国民(nation)と国家(state)が一体となった「国民国家(nation state)」が生まれます。

そして、ナポレオンのヨーロッパ遠征によって、国民国家の精神はヨーロッパ中に輸出されていきます。

というのは、フランス国民軍の強さを目の当たりにしたヨーロッパ諸国は、まとまらなければならない、と思いはじめるのです。

原初主義とは民族には根拠となる源が具体的にあるという実態主義的な考え方です。

道具主義は、民族はエリートたちによって創られるという考え方。つまり、国家のエリートの統治目的のために、道具としてナショナリズムを利用するのが道具主義です。

ナショナリズム論を打ち出した3人の知的巨人。
アンダーソン、ゲルナー、スミス。

ルターのドイツ誤訳の聖書が普及したことで、標準的なドイツ語を読み書きする空間が生み出されるようになった。

そこにナショナリズムが生まれます。

アンダーソンの考え方では民族とは想像された政治的共同体であり、共通言語があれば、そこに「われわれ」という共通認識が生じます。

だから「われわれ」を感じることができる文学形態(たとえば、小説)はナショナリズムと表裏一体の関係にあります。

アンダーソンはもう一つ「公定ナショナリズム」を指摘します。
それは、支配者層や指導者層が、上から「国民」を創出しようとするものです。

それに対して、スミスは、近代的なネイションを形成する「何か」があると考えます。それをスミスはエトニと言います。

スミスの定義によると「エトニとは、共通の祖先・歴史・文化をもち、ある特定の領域との結びつきをもち、内部での連帯感をもつ、名前をもった人間集団である」。

しかし、エトニを持つ集団がかならずネイションを形成するわけではありません。

ゲルナーの考え方は、ナショナリズムの思想があって、ナショナリズムの運動が生じるのではなく、ナショナリズムの運動があって、ナショナリズムの思想が生じるということです。

そして、労働力の商品化ひいては産業化が、ナショナリズム誕生の条件だと言っています。

社会が流動化すると、見知らぬ者どうしでコミュニケーションをする必要が出てきます。すると、普遍的な読み書きや能力や計算能力といったスキルを身につけることが必須になる。そういった教育を誰が与えるかといったら、それは国家しかありません。

一定の教育を広範囲に実行するためには、国家が必要です。国家は社会の産業化とともに、教育制度を整え、領域内の言語も標準化する。こうした条件があって、広範囲の人々が文化的な同質性を感じることができるというわけです。

つまり、エトニがあるからネイションができるのではなく、ネイションができるからエトニが発見されるのです。

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私も「エトニ」がそれぞれの人々の中に存在すると思います。

そして、それは、なんとなく安らげる場、価値観や歴史、自分の体験が他人と共感できる場だったり人のような気がします。

例えば、小学校のクラス。

他のクラスに立ち入るのはなんとなく不安になります。他のクラスは言ってみればawayなわけで、自分のクラスはやはりとてつもなく落ち着きます。

他のクラスが押し入ってきたら、そこはもう、戦争のようになるでしょう。

でも、他の学校の生徒が自分の学校の校庭で野球を始めたら、「ここは、俺たちの校庭だ」という感じで喧嘩になるでしょう。

なんか、難しい話をつらつらと書いてきましたが、ナショナリズムは私たちのすぐ近くにあるものだと思います。

国内においても自分の住んでいる町が他の町や県に脅かされることになれば、そこにナショナリズムが生まれるのです。

この本にも書かれていましたが、現在、沖縄で起こっていることはそういうことなんだと思います。

おぼろげな記憶ではありますが、以前、「カラシニコフ」という本を読んだ際に、その本の著者がカラシニコフ(AK-47)を発明したカラシニコフ氏に、「なぜ、あんな銃を発明したのですか?」と聞いたところ、カラシニコフ氏は

「私は、ただただ、自分の家族、自分の国を守りたかっただけなんだ」

と答えておりました。

自分の安住の地、信頼できる人々、愛している人々が危険にさらされる時に、エトニに気がつき、ナショナリズムが形成されるのかもしれません。