私が息子にキレる理由
最近、よく小学6年生の息子にキレてしまいます。
悪い時には、手が出たりもします。
私が息子にキレる直接的な理由は言い訳です。
宿題をやらなくてもいい理由や、すぐにやらない理由や、勉強をしない理由など、できない理由、やらない理由などが多いわけです。
そこで、私がキレてしまうのですが、しかし、冷静に考えてみると、どうも私が怒りたくなるポイントは言い訳にあるわけではないように感じてきました。
なかなか、じっくりと考えても、「これだ!」という答えは出てこないのですが、昨日ふと頭に浮かんだのが「敬意」でした。
息子にはおそらく人に対する「敬意」が足りていないのかなと感じたわけです。
息子にも、私は「敬意」を払ってもらいたいわけです。
「敬意」と言いますと、「尊敬される」とか「すごいと思われる」とか、そういう言葉を思い出しがちですが、簡単にいうと「思いやり」なのかもしれません。
重たい荷物を持っている老人がいたら「お持ちしましょうか?」と声をかけるような、そんな「思いやり」「敬意」が家の中にないと思うのです。
私の父親は新聞記者であり、私が幼稚園に通っている頃は家で原稿を書いていました。
また、家でよく本を読んでいたりもしました。
そこには、幼稚園児ながらに「邪魔してはいけない」「静かにしていなければいけない」という思いやりというか、「父親の大切な時間を奪ってはいけない」という敬意があったように思うのです。
しかし、我が家の小学6年生はパソコンを開いて仕事をしていると、「何してるの?」とパソコンを覗き込んできて、考えごとをして手が止まっていると、「パソコン使ってないんだったらyoutubeでOO検索してみて」と言ってくる始末。
本を読んでいたら、「小説は仕事じゃないよね?」と言ってプロレスごっこを仕掛けてきたり。
息子が行きたいと言った博物館に連れて行くと、30分ほどしたら「飽きたし、ゲームセンター行っていい?」とか、「もう帰っていい?」などと騒ぎ出したりします。
一度、公園に置いてあった杖(息子いわく落ちていたというのですが)を持って帰ってきて「この杖、公園に落ちとったけど、かっこいいから持ち帰ってきた」と自慢げに杖を見せられたことがあります。
この時は「ちゃんと元に戻してきなさい。忘れ物だと思うから、持ち主は困っているよ」と伝えても、「俺が見つけたんだから、いいやん。大切なものだったら忘れるわけないやん」と泣きじゃくりました。
おそらく、自分の構って欲しい気持ちや正直な気持ちをストレートに発しているのだと思うのですが、そこには悪気はなくても「敬意(思いやり)」はないのです。
つまり、公園に忘れられていた杖が一番いい例だと思うのですが、「こういう言動をしたら困る人がいる」ということがわからないわけです。
それでは、なぜ人に「敬意」を払ったり、「思いやり」の気持ちを持って接することができない子どもに育ってしまったのでしょうか?
単純に教えられていない、と言っても「敬意を払いなさい」と言葉で言っても難しいので、そこは親の言動をしっかりと見せれているか、いないか、ということなんだと思います。
例えば、親と一緒に過ごす時間が少なく、親の言動が子どもに伝わっていない、ということがあるかもしれません。
しかし、おそらく、一番の原因は子どもが親から「敬意」を払わられていない、ということだと私は考えました。
例えば、子どもが何かに夢中になっている時に「早く、OOして!」と1日に何度も言うようでは、子どもとしては「敬意」が払われていないわけですから、他の人にどうやって敬意を払ったらいいのか、わかりません。おそらく、親と同じように誰が何をやっている最中でも話しかけたり、邪魔をするような言動をとることになるのではないでしょうか。
また、子どもに何かお願いした時の、会話のやり取りができているかどうかも、影響するように感じます。
例えば、「お醤油持ってきてくれる?」「ありがとう」と言うような発言ができているかです。
「思いやり」や「敬意」はおそらく、そう言うところから育まれるのではないかな、と思ったわけです。
さらに付け加えますと、親が子どもを見下している場合、子どもには自尊心が育たず人にも「敬意」を払うことはできません。
さて、本題に戻ります。
私が息子にキレる理由は、「敬意」を払われていないから、ということがわかりました。
そして、息子が「敬意」を払えていないのは、親の言動に問題がある、ということもわかりました。
すると、結局のところ私は何にキレているのでしょうか?
もしかしたら、息子に「敬意」を示しきれていない自分にキレている、ということになるのでしょう。
「敬意」は自分が人に払った分だけど、自分に戻ってくる、とも言いますので・・・・・・。
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