パパの気持ち | 携帯電話と子どもの冒険
私は昔から、遠くに行くのが好きだ。
なぜかはわからないが、幼稚園児の頃から自転車でできるだけ遠くに、自分の知らない場所に行くのが好きだった。
そして、いくら遠くに行っても、まったく知らない道を「多分こっちだろう」という勘にしたがって帰ってくることができた。
私の家は昔からアパートの最上階だった。
幼稚園から小学生にかけて、4階、5階、10階という高さの部屋に住んでいた。
おかげで眺めが良い。
眺めがいいので、いつも遠い場所の鉄塔だったり、高層マンションだったり、山を窓から眺めて過ごしていた。
すると、どうしてもそこまで行ってみたくなってしまうのだ。
実際に自転車で行ってみるのだが実はそれほど遠くなかったということがすぐにわかり、がっかりするということを繰り返してきた。
小学生の頃は愛知県名古屋市中区に住んでいた。
小学5年生か6年生のある土曜日。
友人が、突然「四日市の友達に会いて〜」という。
「じゃ、学校終わったら行こうや」ということになり、親には内緒で土曜日の午後、自転車で地図も持たずに四日市を目指したことがあった(当時は土曜日も学校がありました)。
とりあえず、知らない道をウロウロしながら国道にたどり着くと、標識に「四日市 36km」の文字が書かれており、標識に従って四日市駅までたどり着いた。
「で、友達の家は?」
と友人に聞くと、
「知らない」
ということで、結局は友人の四日市の友人に会うことはできずに、四日市駅からそのまま折り返してきた。
目的はなんだったのかよくわからないけど、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)という大河に架かる橋を自転車で渡った時には相当な感動を覚えたし、日常生活で見慣れた景色に再会すると、自分はとてつもなくすごいことを成し遂げたのではないか、と自己満足に浸るのだった。
さて、息子が中学一年生だった時の話である。
息子と自転車で自宅から40分ほどの場所に稲刈り体験に出かけた。
国道のような道を延々とまっすぐ行けばたどり着く、自宅からは1回曲がればいいだけの場所である。
さて、中一の息子は午前中だけで稲刈り体験に飽きたようで、家に帰ってゲームセンターに行きたいという。
私は
「まだ作業が残ってるから、ほぼ一本道だし一人で帰ってみな」
というと、
「曲がるところまで一緒に来て」
という。
息子にとっては残念なことに、その曲がり角は稲刈りの作業場からも見えるところだったので、
「あの信号を曲がればいいんだよ」
と指をさす。
嫌々感丸出しで自転車を漕ぎはじめる息子。
息子と別れて10分ほどすると携帯電話が鳴る。
息子からの電話で道に迷ったという。
私も息子がどこにいるのかわからなかったが、道筋を聞いて、自宅から遠くない場所にいることはわかった。
「その辺の人に聞いてみな」
と言っても
「え、家から近いんでしょ。笑われる」
と言って聞こうとしない。
「家から近いんだったらわからないかな?」
「わからない」
「そうか。異次元空間に入り込んだかもしれないね」
などとちょっとからかってみる。
「うーん。とりあえず、もうちょっと頑張ってみる」。
3分後にまた携帯電話が鳴る。
「どうした。月にでもたどり着いた?」
とまたちょっとからかってみる。
「えー、まだ同じところ」
「いい加減、誰かに聞きなよ」
「えー。あっ、OO駅が見えた!バイバイ」。
どうやら、無事に道しるべを見つけたようだ。
携帯電話が普及して確かに世の中便利になった。
道に迷った息子からも電話がかかってくるし、息子がだいたいどのあたりにいるのかもわかる。
ある意味ありがたい。
でも、私が小学生の頃に体験したような、「この道ってどこに行くんだろう?」「こっちに行ってみたらどこに行くんだろう?」とワクワクしながらも、一人で寂しさと不安を感じながらの冒険はもうこの時代にはないのかもしれないと悲しく思ってしまう。
見慣れた道に辿りついた時の安堵感と「この道、ここに出るんだ!」という感動も薄れてしまう。
幼い頃から、出かける時は母親の車に乗り、電車やバスにもほぼ乗ったことがない中一の息子。
そこに携帯電話の追い討ちである。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があるように、昔から子どもには一人で旅をさせ、問題解決能力を育め、と言われていたような気がするが、携帯電話にすぐに頼ってしまう我が子のこの状況は、ちょっとどうしたものかと考えてしまう。
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