独学の方法、本を読むべき理由、書評の書き方が学べる
立花隆氏の『ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎論』を読んでみた。
恥ずかしながら、私はこれまで立花隆の本を一冊も読んだことがなかった。
知っていたのは、「立花隆」という名前と、著名なジャーナリストであるということくらい。大学院時代、同僚の本棚に『サル学の現在』が並んでいるのを見て、「立花氏は人類学者でもあったのか」と妙な誤解を抱いたことすらある。それほど私は彼のことを知らなかった。
今回この本を手に取ったのは、立花隆に特別な関心があったからではない。古本屋の棚で偶然目に入り、「成功した知識人はどんな本を読み、どう読んできたのか」が気になったからである。
ページを開くと、彼が実際に読んだ本の紹介は全体の四分の一ほどだっただろうか。だが、私の期待はいい身で裏切られた。それ以外の部分こそが実に面白い。そこには、彼の仕事の仕方、思考法、こだわり、本の選び方、そしてある分野に強くなる方法などが、惜しみなく語られている。
立花隆の仕事の仕方
立花氏は事前準備に手を抜かない。
彼の事前準備というのは、読書のことである。
例えば、ちょっと長くなるものの、本書から引用をしてみる。
「ここ半年ばかり「中央公論」で『脳死』という連載をやっております。
これを書くために買いまして読みつつある医学書というのは、金額にすると50万円は軽く超えていますし、積み重ねると、3メートルから4メートルくらいになるんじゃないかと思います。いままでも、大体大きな仕事をやるときには、3メートルから4メートルは関係の資料を読むということにしています。前に『農協』を書いたときも、そのくらい読みましたし、共産党のことを書いたときは、その倍くらい読みましたし、ロッキード裁判をフォローしていく過程で読んだ法律書もそのくらいになります。
そういう大きな仕事だけではなく、小さな仕事では、最近「アニマ」という動物雑誌で河合雅雄さんというサル学の先生と対談することになったとき、書店に行きまして新しいサル学関係のものを片っぱしから買って読んでみました。大体1メートルぐらいで、金額にして5万円か6万円ぐらいになりまして、その対談料が6万円だった。馬鹿みたいな話ですけれど。」
物書きとしてここまで徹底しなければ、平均以上の収入も得られず、著名にもなれないのだ、と痛感させられた。
古典を読む意味とは何か
古典は読まなければいけないのかという点について、立花氏はまず、古典の定義が曖昧であることを指摘する。彼のいう「本来の古典」とは、ルネサンス以前のもの、すなわちギリシア・ローマの古典、東洋でいえば四書五経、日本なら万葉から平安朝文学までを指す。
私たちはしばしば、トルストイやドストエフスキーといった十九世紀文学を「古典」と呼ぶ。しかし彼は、その評価はまだ歴史のふるいにかけられている最中だという。真に古典と呼ばれるものは、時間の淘汰を経てなお生き残ったものなのだ。
さらに興味深いのは、古典の中にも「くだらない部分」は多い、と率直に述べている点である。それでも読む価値があるのはなぜか。
それは、「共通体験」になるからだという。
同じ書物を読んだという事実そのものが、語り合うための土台になる。書物はメッセージを伝える媒体であるだけでなく、それ自体が議論の素材となる。そうしたマテリアルとして適切なものが、生き残り、古典になるのだという。
なるほど、と思った。
読むことは知識を得るためだけではない。対話のためでもあるのだ。
独学をするときは本を二十冊
独学についての考え方も、実に大胆だ。
ある分野について詳しくなりたかったら、まず本屋に行って、学びたい分野の本を二十冊買え、と言う。
そして片っ端から読む。つまらない本、悪文、どうしても著者の考え方を受け入れられない本は、迷わず途中でやめる。
せっかく買ったのだから、と無理に読み続けるのは時間の無駄だという。二割は外れだと覚悟しておけばいい。一冊だけ買うから執着が生まれる。二十冊あれば、二、三冊捨てても痛くない。
この発想は実に合理的だ。
さらに、同じ分野の本を集中的に読み込めば、一か月でその学問の概要は頭に入るという。そこから先は難しくなるが、一定段階に達すればあとは自力で進める。
「実戦」に役立つ十四カ条
本書には、読書のための「実戦十四カ条」が示されている。
(1)金を惜しまず本を買え。
(2)一つのテーマについて、一冊の本で満足せず、必ず類書を何冊か求めよ。
(3)選択の失敗を恐れるな。失敗なしには、選択能力が身につかない。
(4)自分の水準に合わないものは、無理して読むな。水準が低すぎるものも、水準が高すぎるものも、読むだけ時間のムダである。
(5)読みさしでやめることを決意した本についても、一応終わりまで一ページ、一ページ繰ってみよ。意外な発見をすることがある。
(6)速読術を身につけよ。
(7)本を読みながらノートを取るな。
(8)人の意見や、ブックガイドのたぐいに惑わされるな。
(9)注釈を読みとばすな。
(10)本を読むときには、懐疑心を忘れるな。
(11)オヤと思う個所(いい意味でも、悪い意味でも)に出合ったら、必ず、この著者はこの情報をいかにして得たか、あるいは、この著者のこの判断の根拠はどこにあるのかと考えてみよ。
(12)何かに疑いを持ったら、いつでもオリジナル・データ、生のファクトにぶちあたるまで疑いをおすすめめよ。
(13)翻訳は誤訳、悪訳が極めて多い。
(14)大学で得た知識など、いかほどのものでもない。<中略>若いときは、何をさしおいても本を読む時間をつくれ。
当たり前のことをちゃんとやっているのが「知の巨人」なのだと感じた。
なぜ文学作品を読むのか
立花氏はこう言う。
「読まないと文章って書けないからね。まず消費者にならないと、ちゃんとした生産者になれない。それと、文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。物事の理解が図式的になりがちなんじゃないかな。文学というのは、最初に表に見えたものが、裏返すと違うように見えてきて、もう一回裏返すとまた違って見えてくるという世界でしょう。表面だけでは見えないものを見ていくのが文学だもの。」
仕事が忙しくなると、文学作品はあまり読まなくなり、仕事に活かせそうな実用書やノウハウ本ばかり読むようになる。
文学作品を読んでいると、時々「時間の無駄では?」と罪悪感を感じることすらある。
しかし、実用書、ノウハウ本ばかり読んでいても、人間としての成長はないようだ。
立花氏の言葉によって、これからは堂々と文学作品も読めるようになるのでありがたい。
「これさえ読めば大丈夫」という「一冊」は存在しない
立花氏は人に「この一冊を読め」とは言わない。
「何かに興味を持ったら、関連の本は十冊は読むべきなんです。「一番いい一冊はどれか」なんて考えないで、本屋に行って、関心がある分野の棚にある本は片っ端から手にとってみて、とりあえず十冊買って帰る。その中にはもちろん「読まない方がよかった」という本もあるでしょう。つまらないとか難しすぎるとか、著者との相性というものもあるからね。ただ十冊の中には「アッ、なるほど」という本が必ずあるものなんです。一冊、二冊という読み方をしてちゃダメですね。「本との出会い」というのはそういうものなんじゃないかな。」
効率を求める現代の風潮とは逆である。しかし、知の形成はもともと非効率なものなのかもしれない。
地道に毎日少しずつ、というのが知の形成の近道なのだ。
知の巨人の背中
巻末には『週刊文春』の「私の読書日記」や、秘書公募の顛末、中学三年生時代の文章なども収められている。とりわけ中三の文章には驚いた。これが本当に十五歳の書いたものかと疑いたくなる。
読後、改めて思った。
立花隆は「知の巨人」であったが、その背景には天才的なひらめきがあるだけではなく、量を読み、疑い、捨て、掘り下げる。その徹底の積み重ねである。
「若いときは、何をさしおいても本を読む時間をつくれ」
この言葉は、若くない今の私にも響く。
これからは、一冊を大事に読むだけでなく、ある分野をまとめて読むという方法も試して知識を確実なものにしてみたい。
読むことは、書くことの準備である。
そして、考えることの訓練である。
この本は、読書そのものをもう一度真剣に考えさせてくれる一冊だった。








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