坂本龍一はなぜ世界で認められる存在になれたのか

2024-06-19

世界的に名の知れた日本人がどんな人生を歩んできたのかがちょっと気になって坂本龍一の自伝「音楽は自由にする」を読んでみました。

この本は1952年生まれの坂本龍一が幼少時代から、2009年までの経験と気持ちを綴った自伝です。

この本には、伝説のYMOがどのように結成されたのか、アカデミー賞を受賞したラストエンペラーの音楽はどのようにできあがったのか、坂本龍一が同世代の音楽家、大瀧詠一、山下達郎、矢野顕子、高橋幸宏、細野晴臣、後藤次利などをどう見ていたのかも書かれており、日本音楽史の表立っていない事実を知ることができる本です。

坂本龍一はやっぱり変人!?

この本を読んで、坂本龍一は普通の人とはちょっと感覚が違う文化人だったのかな、という印象を持ちました。

たとえば音楽の好み。

小学生低学年の頃は「ポップスや歌謡曲もテレビやラジオから耳に入ってはいたけれど、本当に好きだったのはバッハでした。」

「ドビュッシーに出合うのは、中学2年のときです。初めて聴いたのは、もう一人の叔父のレコード・コレクションにあった弦楽四重奏曲でした。これにもすごい衝撃をうけて、夢中になり、それからしばらくの間、自分はドビュッシーの生まれ変わりだと、半分本気で信じていたぐらいです。」

読む本に関しても普通の子どもとは違っていました。

「五味川純平の『人間の條件』を読んだのが、たぶん中学1年のとき。」

「中学2年ぐらいで、デカルトの『方法序説』を持って歩いたりしていました。」

そのほか中学生で、『マダム・エドワルダ』や『眼球譚』『O嬢の物語』『裸のランチ』を読んでいたそうで、「こういう本たちは独特の匂いを放っていて、書棚からぼくを呼んでいるような感じがした。」と書いています。

つながりに導かれた成功

芸大生の3年生だった時に結婚した坂本は、生活費を稼ぐためにバーでピアノを弾いたり、作曲を頼まれたりして、フリーランスの音楽家として活動をはじめます。その頃にあらゆるミュージシャンと出会ったそうです。

ただこの頃は、音楽が仕事だとは思っていなかったそうです。

大学で修士課程に進んで、修了作品を出したのが1977年。

この頃には、世間では知られていなくとも、ミュージシャンの間では相当知られるようになっていたようです。

学生時代に坂本龍一が、山下達郎、細野晴臣、矢野顕子など、あらゆるミュージシャンと出会った時の感覚は興味深いものでした。

「(山下達郎と細野晴臣と)もう一人、同じような驚きを感じたのが矢野顕子さんです。彼女の音楽を聴いたときも、高度な理論を知った上でああいう音楽をやっているんだろうと思ったのに、訊いてみると、やっぱり理論なんて全然知らない。

 つまり、ぼくが系統立ててつかんできた言語と、彼らが独学で得た言語というのは、ほとんど同じ言葉だったんです。勉強の仕方は違っていても。だから、ぼくらは出会ったときには、もう最初から、同じ言葉でしゃべることができた。これはすごいぞと思いました。」

また、彼らに出会うことによって音楽の作り方についても坂本龍一の考え方が大きく変わったようです。

「日本中から集めても500人いるかどうかというような聴衆を相手に、実験室で白衣を着て作っているような音楽を聴かせる、それが当時ぼくが持っていた現代音楽のイメージでした。それよりも、もっとたくさんの聴衆とコミュニケーションしながら作っていける、こっちの音楽の方が良い。しかも、クラシックや現代音楽と比べて、レベルが低いわけではまったくない。むしろ、かなりレベルが高いんだと。ドピュッシーの弦楽四重奏曲はとてもすばらしい音楽だけど、あっちはすばらしくて、細野晴臣の音楽はそれに劣るのかというと、まったくそんなことはない。そんなすごい音楽を、ポップスというフィールドの中で作っているというのは、相当に面白いことなんだと、ぼくははっきりと感じるようになっていました。」

坂本龍一の名曲の裏側

YMOが成功して、あの名曲「君に胸キュン」ができたエピソードも印象的です。『テクノデリック』というアルバムができた時に、「3人の持っているものが、最良の形で結晶した」出来となり、もう終ってもいいかな、という感じから、「あとは花を咲かせて終わろう」という気持ちで、歌謡曲路線で作ったそうです。

アカデミー賞で賞を獲ったラストエンペラーの曲の裏側は結構衝撃でした。

「『ラストエンペラー』の音楽は、東京で1週間、ロンドンで1週間、合わせてわずか2週間という地獄のようなスケジュールの中で書き上げ、録音したものです。」

「そして試写の日、完成した映画を観て、ぼくは椅子から転げ落ちるくらい驚きました。 

ぼくの音楽はすっかりズタズタにされて、入院するほどまでして作った44曲のうち、使われているのは半分ぐらいしかなかった。必死に文献を調べて研究し、この場面ではきっとこういう音楽が流れているに違いない、と思えるぐらいまでエネルギーを注ぎ込んで作った音楽が、あっさりボツにされていました。それぞれの曲が使われる場所もかなり変えられていたし、そもそも映画自体がずいぶん違うものになっていた。もう、怒りやら失望やら驚きやらで、心臓が止まるんじゃないかと思ったほどです。 

それ以来、試写会というものにはあまり行かないようにしているんです。本当に、身体に悪いですから。」

坂本龍一はなぜ、成功したのか。

本人はこんなことを言っています。

「だいたい、YMOだって誘われたから始めたんですよ。どうしてこんなの引き受けちゃったんだろう、でもまあ細野さんから声がかかったのはうれしいし、みたいな感じで。考えてみると、自ら進んで始めたことなんて、たぶんあんまりないんですよ。うしろ向きの人生ですよ。

 自分としては、あまり手を広げずに、むしろなるべき狭めて、音楽だけやっていられれば幸せなんですけどね。いろいろなことに関わって、いろんな体験をする羽目になっているんですよ、行きがかり上。」

じゃ、なぜいろんな人に声をかけられることになったのか。

おそらく、一番の理由は「才能があったから声をかけてもらえた」

そして、もう一つは「身を置く環境がよかったから」ではないでしょうか。

坂本龍一氏は自分の興味関心のあることろに躊躇せず、飛び込んでいく(本書の内容だと、なんとなく足がそっちの方向に向くという感じだったのかもしれませんが)人のようでした。

例えば、高校時代に一人でジャズ喫茶に通ったり、ジャズバーでピアノを弾くバイトをやっていたことで、あらゆるミュージシャンと繋がっています。

また、やりたいことは、たとえ経験がなくても素直にやりたいと言うことで、人生を良い方向に導いています。

「戦場のメリークリスマス」の音楽を担当することになったエピソードがいい例でしょう。

「『映画に出てください』というのが、大島さんからのお話でした。

ところが、ぼく『はい』と言う代わりに『音楽もやらせてください』と言った。」

ただ、この時、作る自信はあっても映画音楽の作り方は何も知らなかったそうです。

結果、「戦場のメリークリスマス」の音楽を担当し、その後のラストエンペラーの仕事につながっています。

才能だけがあっても、人から声がかからなければ仕事はもらえない。

しかし、仕事をくれそうな人とあらゆる場所で繋がり、やりたいことを素直にやりたいと言ってきたことが彼の成功につながったのでしょう。

最後に、彼が成功した秘訣は自分の音楽に対する謙虚さというか、常に「まだまだ」と思い、自分の音楽を常に高めようとしていたところではないでしょうか。

この点は、他分野の成功者、野球のイチロー選手や陸上の為末大選手とも繋がるところがありますよね。

常に自分を高めようとする意識は成功するための最低限必要な要素かも知れません。